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私は少し、臆病になっていました。
私達の祖先が私達子孫とこの国の未来の安寧を想い染めあげたこの文献が、私の手を介す事によって生じる可能性のある間違い、思い違い、考えの至らなさ等によってその輝きを損ない、貶めてしまうことを、私は恐れていました。
私達の祖先の叡智と、子々孫々までの安寧を願った想いを歪めてしまうこと、そして歪な形で世間に伝えてしまう可能性について、私は恐れていました。
今も尚生じ続ける、膨大な思考の渦の渾沌の中で、私は混乱し困惑し、そして萎縮してしまっていました。
しかし、
【続きを読む】
最近、私はあまり悲観的に考えるのをやめにしました。
この国には、様々なところで萌しが芽吹き始めていることに、改めて気付いたからです。それは、革命や変革というような類のものではなく、眠っていた記憶を静かに思い出すような…。決して今の状況から未来を楽観視することはできません。しかし、それらの萌しから、希望を強く感じたのです。
私は地方を旅するのが好きです。地方を旅する目的はいくつかありますが、そのひとつが神社の参拝です。地方の神社を参拝するとき、現地に到着してから公共の交通機関を使うことは、あまりありません。地方の公共の交通機関の殆どが死滅していて、使おうにも使えない現状ではありますが、例え使えたとしても、時間の許す範囲内で、出来うる限り歩くことにしています。時には、数10kmの距離を数時間かけて歩くことになります。しかし、そのことを苦痛に思うことは決してありません。歩くことでしか見えてこない景色や雰囲気、そして残された自然と、そこで生活する人々の営みから聴こえてくる音などを感じ、そしてそれらの奏でる音の調べを楽しみながら歩いているからです。
所謂古社と呼ばれる神社には、樹齢数百年を越える巨木が数多く残っています。その巨木の下で、様々な生命達が自然の摂理の中で生命活動を営んでいます。神域の森に囲まれた境内で、私は大きく深呼吸をします。その時、えも言われぬ充足感に満たされるのは、自然の中で生じた生き物達の生命活動の調べに、私の体が共鳴するからでしょう。
私は、そういった自然の摂理の内側にほど近い世界の営みから聴こえる、ささやかな調べの中にこそ、この国を救う希望や暗示が隠されていると思うのです。
世間を覆う拝金主義者や偽善者達の詭弁に惑わされ騙されることなく、氾濫する情報の正邪を見極め、思考を過信することを止め、感覚を全開にし、日々移り変わる自然の動きの有りの侭を受け止め、それぞれがこの国に産まれ生きる自分自身という存在について、改めて考えていただきたい。しっかりと眼を見開いて辺りを見渡せば、この国がまだ光に溢れていることにあなたも気付くことでしょう。私はその光を守り、大きく発展させたい。この暗澹たる現状に、ハル(春)をもたらしたいと思うのです。
現在、ヲシテ文献の研究は新たな局面を向かえています。後に記す諸事情から、私はあまり現在の作業に貢献できておりませんが、皆さまには、研究所による研究の成果の発表をどうぞ心待ちにしていただきたい。私は現在の研究の少し先を見据えつつ、自分の足元を固め、恐縮ながら池田先生が紹介文を書いて下さっているように、縄文哲学を正面突破してヲシテ時代の高度文明、高度な縄文哲学の解明に少しずつ挑みたいと思います。
私は、ヲシテ文献を読むにあたって、全体の内容を把握することよりも、先ずはヲシテの読み書きを始めました。ルビを振らずにヲシテを読めるようにならなければ、話にならないと思ってのことでした。そして、2週間ほどでようやくヲシテをルビなしで扱えるようになり、ヲシテ1文字1文字が私の体に馴染んできた頃、私の前に大きな疑問が立ちはだかりました。この文献がヲシテという特殊な文字で記されている必然という疑問です。
そして、その疑問に少しずつ回答を得るために「ウツホカセホト ミツハニノ」という記事の連載を始めました。池田先生のまとめられた書籍やブログの記事、びーちぇさんの記事などを参照し、それらを自分なりにまとめてみるという方法から始め、それに少しずつ自分なりの解釈、考察を加えてゆくという方法で記事を進めて行くことにしました。
当初から、ゆうに100回は超える膨大な更新回数の記事になるであろうということは予見していましたが、実際手をつけてみると、その読みがどれほど甘いものであったか、身に沁みてわかりました。しかし、書きながら直感的に、私は何かを掴みかけている気がしていました。
そしてついに、私に大きな転換点をもたらした、ひとつの言葉がありました。
それは「マトカ」という言葉でした。
ホ16-11
アメツチイマタ ワカサルニ
ウイノヒトイキ マトカニテ
この部分は天地開闢、すなわちこの世界の始まりについて、彼らの考え方が記された箇所ですが、現存するヲシテ文献全体の7箇所に比較対象となる記述があります。その7箇所を比較して見ると、この部分はウイのヒトイキが東から上昇して西へ下降するという円運動を繰り返し、最終的に中心に一本のハシラが立つように発光したことを描写している箇所であることがわかります。つまり、アメノミヲヤの発したウイのヒトイキの動き、そして円運動の顛末からエネルギーの発現までを、マトカというひとつの言葉で表現していることが解るのです。
そこで、マトカという言葉の文字のカタチと、マトカという言葉の意味について、文脈と文献内の記述を根拠として考えてみることにしました。

左と右とを中央を介して平行に結ぶ横棒と、中央から下部に向かって垂直に伸びる縦棒、そして円によって形成される「マ」。2本の斜め棒と、下と中央を結ぶ縦棒が中央で結合する形と正方形の組み合わせの「ト」。上下を結ぶ縦棒と、円によって形成される「カ」。
ここでは詳しく触れませんが、これらヲシテの図象の意味についての説明は、様々な形で文献内の各所に散見できます。
ヲシテ文献では円形の図象をマルと呼んでいます。また、規則的な循環運動のことをマワルと呼んでいます。これらは現代日本語にも承継されていますね。
このようなヲシテ文献中に数多ある言葉の用例と、前後の文脈、関連箇所等の比較検証結果を総括することによって、「マ」という文字が、1文字で円運動や円運動によって生じるひとまとまりのエネルギーを表現しているのではないか、という答えに私は行き着きました。
たとえば、同じ「マ」を使う言葉で、その場に留まることを継続するという意味のマツという言葉や、別の例を前の文脈に付与するマタという言葉など、こういった視点を利用して考えてみる事によって、その本質的な意味を探れる可能性について確信をもったのです。
これが、仮名漢字の呪縛から逃れ、ヲシテ文献を、そして日本語をヲシテの字形で読むということの試みの発端でした。
この考察の後、俗に言う安聡本(和仁估容聡による江戸時代後期の写本)をテキスト化したものを池田満先生より頂戴し、その中の上記に記した「ホ16-11」の箇所の「マトカ」が、和仁估容聡によって「円(まどか)」と漢字訳されていることを知り、自分の考察の方向性が正しいということに、改めて確信を得たことをしっかりと記憶しています。
そう、このとき私は「まどか」という日本語の存在を、恥ずかしながらすっかりと忘れていたのでした。しかし、「まどか」という日本語を忘れていながらも、「円(えん)」という言葉から連想できるイメージが頭の中から抜け落ちていても、文献に根拠を求め、文脈と文字形を考察することで、そのだいたいの意味が分ってしまったのです。これはとても衝撃的なことでした。
そして、マトカを「円(まどか)」と漢字訳してしまうことで、文字の背景に込められたエネルギーの動きが損なわれてしまっている。そのことについても確信を得ました。
以下が、安聡本の対応箇所の漢字訳です。
「古天地未剖 初在一元気貌圓」
いかがでしょうか?これでは上に書いたイメージは連想できませんよね。
つまり、ヲシテの字形によるこの箇所の「まとか」とは、アメノミヲヤのヒトイキが円運動を起し、その結果生じた一筋のエネルギーが、一箇所に収束して定常化し、さらには空間に一筋の光となって発現することをだいたい意味しているのですが、それが「円(圓)」と漢字1文字で書かれてしまうことで、本来の意味が損なわれてしまうわけです。
このように、マトカという言葉をきっかけとして、ヲシテはヲシテで読まなければ全く意味がなく、ヲシテ文献に記されている内容の真価を解明するには、ヲシテという特殊な文字の図象の解明が必須であるということに、私は確信を得たのでした。
しかし従前、松本先生と池田先生を除く殆どのヲシテ文献の研究者達は、原典を疎かにするばかりか、原文を漢字仮名混じりの翻訳やカナ変換し、全体の内容を追うばかりの研究を続け、なぜヲシテ文献がヲシテというこの特徴ある文字で書かれているかという事に対して、あまりに無頓着でした。
現在一般に出版されているヲシテ文献の研究成果を発表した書籍のうち、ヲシテの文字と原文を表記した上で解説を行っているものは、松本先生と池田先生の書籍のみでしょう。このような原典を無視した研究を多くの自称研究者が行ってきた、そして今現在も行っているという現状では、ヲシテ文献が偽書扱いされるのも仕方ありません。
ヲシテの文字形を無視し、仮名ルビ付きのヲシテ文献を読み、そしてヲシテ文献の表層的な内容を追うばかりでは、その深淵に眠る高度な哲学、そして真理に辿り着くことなど出来るはずがないのです。皆様もどうか、ヲシテ文献はヲシテ原字で御読み下さい。原文を漢字仮名混じりに訳すことなど、先人の知恵と想いを蔑ろにする愚かな行為であるといことについて、どうかご理解下さい。
さて、だらだらと長い上に、取留めのない内容で申し訳ありませんでした。更新をやめてから半年以上経ちますが、更新を確認するために定期的に訪問して下さる方が現在もいらっしゃることを、とても嬉しく思います。今後連載を続けてゆく励みになります。どうもありがとうございます。
現在、仕事が多忙であることや、親族が生死に関わる闘病生活を送っていることも重なり、今後もしばらくの間は更新は不定期になると思います。時間に余裕ができた頃に心機一転し、FC2ブログから撤退することを考えています。その後はHPを開設して、そちらに移転し、本格的に記事を書き始めることを思案しております。
しかしその前に「タマのネコヱを聴く」というブログタイトルに対しての記事をひとつ、書きたいと思っています。以前に書いた記事は、びーちぇさんにご指摘を受けて訂正箇所でいっぱいの記事でしたが、今度はもう少し自信をもって書けそうです。訂正した箇所を、再訂正する必要も出て来ました。
また「ウツホカセホト ミツハニノ」で記している、ウツホ、カセ、ホ、ミツ、ハニ、の概念についてのまとめは、あくまでヲシテ哲学の入門編という具合に認識していただければ宜しいかと思います。このあたりの理解についても研究が進んでおりますことを、加えてここにご報告させていただきたいと思います。
最後に。
最近、何よりも私が嬉しく思い、希望を感じているのは、
「自然の摂理に則った循環」の重要性について意識している方々が増えて来たことです。
そういった方々には是非、ヲシテ文献を手に取って、そしてルビを振ったものや、漢字仮名混じりの訳文などではなく、ヲシテ原文を読んでいただきたいと思います。
ヲシテ文献に内包されている重要なテーマのひとつこそ、自然の摂理に内包された循環であるからです。私達人も、自然の一部であることを忘れてはならないのです。
しわ
【続きを隠す】
この国には、様々なところで萌しが芽吹き始めていることに、改めて気付いたからです。それは、革命や変革というような類のものではなく、眠っていた記憶を静かに思い出すような…。決して今の状況から未来を楽観視することはできません。しかし、それらの萌しから、希望を強く感じたのです。
私は地方を旅するのが好きです。地方を旅する目的はいくつかありますが、そのひとつが神社の参拝です。地方の神社を参拝するとき、現地に到着してから公共の交通機関を使うことは、あまりありません。地方の公共の交通機関の殆どが死滅していて、使おうにも使えない現状ではありますが、例え使えたとしても、時間の許す範囲内で、出来うる限り歩くことにしています。時には、数10kmの距離を数時間かけて歩くことになります。しかし、そのことを苦痛に思うことは決してありません。歩くことでしか見えてこない景色や雰囲気、そして残された自然と、そこで生活する人々の営みから聴こえてくる音などを感じ、そしてそれらの奏でる音の調べを楽しみながら歩いているからです。
所謂古社と呼ばれる神社には、樹齢数百年を越える巨木が数多く残っています。その巨木の下で、様々な生命達が自然の摂理の中で生命活動を営んでいます。神域の森に囲まれた境内で、私は大きく深呼吸をします。その時、えも言われぬ充足感に満たされるのは、自然の中で生じた生き物達の生命活動の調べに、私の体が共鳴するからでしょう。
私は、そういった自然の摂理の内側にほど近い世界の営みから聴こえる、ささやかな調べの中にこそ、この国を救う希望や暗示が隠されていると思うのです。
世間を覆う拝金主義者や偽善者達の詭弁に惑わされ騙されることなく、氾濫する情報の正邪を見極め、思考を過信することを止め、感覚を全開にし、日々移り変わる自然の動きの有りの侭を受け止め、それぞれがこの国に産まれ生きる自分自身という存在について、改めて考えていただきたい。しっかりと眼を見開いて辺りを見渡せば、この国がまだ光に溢れていることにあなたも気付くことでしょう。私はその光を守り、大きく発展させたい。この暗澹たる現状に、ハル(春)をもたらしたいと思うのです。
現在、ヲシテ文献の研究は新たな局面を向かえています。後に記す諸事情から、私はあまり現在の作業に貢献できておりませんが、皆さまには、研究所による研究の成果の発表をどうぞ心待ちにしていただきたい。私は現在の研究の少し先を見据えつつ、自分の足元を固め、恐縮ながら池田先生が紹介文を書いて下さっているように、縄文哲学を正面突破してヲシテ時代の高度文明、高度な縄文哲学の解明に少しずつ挑みたいと思います。
私は、ヲシテ文献を読むにあたって、全体の内容を把握することよりも、先ずはヲシテの読み書きを始めました。ルビを振らずにヲシテを読めるようにならなければ、話にならないと思ってのことでした。そして、2週間ほどでようやくヲシテをルビなしで扱えるようになり、ヲシテ1文字1文字が私の体に馴染んできた頃、私の前に大きな疑問が立ちはだかりました。この文献がヲシテという特殊な文字で記されている必然という疑問です。
そして、その疑問に少しずつ回答を得るために「ウツホカセホト ミツハニノ」という記事の連載を始めました。池田先生のまとめられた書籍やブログの記事、びーちぇさんの記事などを参照し、それらを自分なりにまとめてみるという方法から始め、それに少しずつ自分なりの解釈、考察を加えてゆくという方法で記事を進めて行くことにしました。
当初から、ゆうに100回は超える膨大な更新回数の記事になるであろうということは予見していましたが、実際手をつけてみると、その読みがどれほど甘いものであったか、身に沁みてわかりました。しかし、書きながら直感的に、私は何かを掴みかけている気がしていました。
そしてついに、私に大きな転換点をもたらした、ひとつの言葉がありました。
それは「マトカ」という言葉でした。
ホ16-11
アメツチイマタ ワカサルニ
ウイノヒトイキ マトカニテ
この部分は天地開闢、すなわちこの世界の始まりについて、彼らの考え方が記された箇所ですが、現存するヲシテ文献全体の7箇所に比較対象となる記述があります。その7箇所を比較して見ると、この部分はウイのヒトイキが東から上昇して西へ下降するという円運動を繰り返し、最終的に中心に一本のハシラが立つように発光したことを描写している箇所であることがわかります。つまり、アメノミヲヤの発したウイのヒトイキの動き、そして円運動の顛末からエネルギーの発現までを、マトカというひとつの言葉で表現していることが解るのです。
そこで、マトカという言葉の文字のカタチと、マトカという言葉の意味について、文脈と文献内の記述を根拠として考えてみることにしました。

左と右とを中央を介して平行に結ぶ横棒と、中央から下部に向かって垂直に伸びる縦棒、そして円によって形成される「マ」。2本の斜め棒と、下と中央を結ぶ縦棒が中央で結合する形と正方形の組み合わせの「ト」。上下を結ぶ縦棒と、円によって形成される「カ」。
ここでは詳しく触れませんが、これらヲシテの図象の意味についての説明は、様々な形で文献内の各所に散見できます。
ヲシテ文献では円形の図象をマルと呼んでいます。また、規則的な循環運動のことをマワルと呼んでいます。これらは現代日本語にも承継されていますね。
このようなヲシテ文献中に数多ある言葉の用例と、前後の文脈、関連箇所等の比較検証結果を総括することによって、「マ」という文字が、1文字で円運動や円運動によって生じるひとまとまりのエネルギーを表現しているのではないか、という答えに私は行き着きました。
たとえば、同じ「マ」を使う言葉で、その場に留まることを継続するという意味のマツという言葉や、別の例を前の文脈に付与するマタという言葉など、こういった視点を利用して考えてみる事によって、その本質的な意味を探れる可能性について確信をもったのです。
これが、仮名漢字の呪縛から逃れ、ヲシテ文献を、そして日本語をヲシテの字形で読むということの試みの発端でした。
この考察の後、俗に言う安聡本(和仁估容聡による江戸時代後期の写本)をテキスト化したものを池田満先生より頂戴し、その中の上記に記した「ホ16-11」の箇所の「マトカ」が、和仁估容聡によって「円(まどか)」と漢字訳されていることを知り、自分の考察の方向性が正しいということに、改めて確信を得たことをしっかりと記憶しています。
そう、このとき私は「まどか」という日本語の存在を、恥ずかしながらすっかりと忘れていたのでした。しかし、「まどか」という日本語を忘れていながらも、「円(えん)」という言葉から連想できるイメージが頭の中から抜け落ちていても、文献に根拠を求め、文脈と文字形を考察することで、そのだいたいの意味が分ってしまったのです。これはとても衝撃的なことでした。
そして、マトカを「円(まどか)」と漢字訳してしまうことで、文字の背景に込められたエネルギーの動きが損なわれてしまっている。そのことについても確信を得ました。
以下が、安聡本の対応箇所の漢字訳です。
「古天地未剖 初在一元気貌圓」
いかがでしょうか?これでは上に書いたイメージは連想できませんよね。
つまり、ヲシテの字形によるこの箇所の「まとか」とは、アメノミヲヤのヒトイキが円運動を起し、その結果生じた一筋のエネルギーが、一箇所に収束して定常化し、さらには空間に一筋の光となって発現することをだいたい意味しているのですが、それが「円(圓)」と漢字1文字で書かれてしまうことで、本来の意味が損なわれてしまうわけです。
このように、マトカという言葉をきっかけとして、ヲシテはヲシテで読まなければ全く意味がなく、ヲシテ文献に記されている内容の真価を解明するには、ヲシテという特殊な文字の図象の解明が必須であるということに、私は確信を得たのでした。
しかし従前、松本先生と池田先生を除く殆どのヲシテ文献の研究者達は、原典を疎かにするばかりか、原文を漢字仮名混じりの翻訳やカナ変換し、全体の内容を追うばかりの研究を続け、なぜヲシテ文献がヲシテというこの特徴ある文字で書かれているかという事に対して、あまりに無頓着でした。
現在一般に出版されているヲシテ文献の研究成果を発表した書籍のうち、ヲシテの文字と原文を表記した上で解説を行っているものは、松本先生と池田先生の書籍のみでしょう。このような原典を無視した研究を多くの自称研究者が行ってきた、そして今現在も行っているという現状では、ヲシテ文献が偽書扱いされるのも仕方ありません。
ヲシテの文字形を無視し、仮名ルビ付きのヲシテ文献を読み、そしてヲシテ文献の表層的な内容を追うばかりでは、その深淵に眠る高度な哲学、そして真理に辿り着くことなど出来るはずがないのです。皆様もどうか、ヲシテ文献はヲシテ原字で御読み下さい。原文を漢字仮名混じりに訳すことなど、先人の知恵と想いを蔑ろにする愚かな行為であるといことについて、どうかご理解下さい。
さて、だらだらと長い上に、取留めのない内容で申し訳ありませんでした。更新をやめてから半年以上経ちますが、更新を確認するために定期的に訪問して下さる方が現在もいらっしゃることを、とても嬉しく思います。今後連載を続けてゆく励みになります。どうもありがとうございます。
現在、仕事が多忙であることや、親族が生死に関わる闘病生活を送っていることも重なり、今後もしばらくの間は更新は不定期になると思います。時間に余裕ができた頃に心機一転し、FC2ブログから撤退することを考えています。その後はHPを開設して、そちらに移転し、本格的に記事を書き始めることを思案しております。
しかしその前に「タマのネコヱを聴く」というブログタイトルに対しての記事をひとつ、書きたいと思っています。以前に書いた記事は、びーちぇさんにご指摘を受けて訂正箇所でいっぱいの記事でしたが、今度はもう少し自信をもって書けそうです。訂正した箇所を、再訂正する必要も出て来ました。
また「ウツホカセホト ミツハニノ」で記している、ウツホ、カセ、ホ、ミツ、ハニ、の概念についてのまとめは、あくまでヲシテ哲学の入門編という具合に認識していただければ宜しいかと思います。このあたりの理解についても研究が進んでおりますことを、加えてここにご報告させていただきたいと思います。
最後に。
最近、何よりも私が嬉しく思い、希望を感じているのは、
「自然の摂理に則った循環」の重要性について意識している方々が増えて来たことです。
そういった方々には是非、ヲシテ文献を手に取って、そしてルビを振ったものや、漢字仮名混じりの訳文などではなく、ヲシテ原文を読んでいただきたいと思います。
ヲシテ文献に内包されている重要なテーマのひとつこそ、自然の摂理に内包された循環であるからです。私達人も、自然の一部であることを忘れてはならないのです。
しわ
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旧暦 二月二十七日
はじめに
はじめに
【続きを読む】
ここは、私がこれから生涯をかけて貫き通す志と、その決意の一端を示す場所として開設します。
大陸思想や漢字伝来以降に歪められた日本の国史を取り戻し、今まさに亡国の兆しさえ見え始めている我が国の、願わくば願わくばその礎になる石垣の石の一つとなれることを。
とまぁ、偉そうなことを書きましたが、浅学の今の私にできることと言えば、本当にわずかです。
当分の間、このブログは各地の神社や旧跡を巡り、その観光記事を公開する場所となるでしょう。
各地を巡り、タマのネコヱを聴くのです。
そして貴方にも、私が聴いたタマのネコヱの残響をお届けしたいと思います。
最後に、このブログで引用されるヲシテ文献についての記述の殆どは、故松本善之助氏とその意志をついで今も尚研究を続けておられる池田満氏の研究の成果及び発表された書籍によるものが殆どであるということを、ここに明記します。
『定本ホツマツタヱ』『校註ミカサフミ・フトマニ』『ホツマ辞典』等の池田満氏の著書、そして『びーちぇのヲシテのクニ』『真名の日本巡礼』というブログがなければ、おそらく私は今の考えに至りませんでした。勿論それだけではありませんが…深く影響を受けたことは間違いありません。加えて、ここに明記します。
【続きを隠す】
大陸思想や漢字伝来以降に歪められた日本の国史を取り戻し、今まさに亡国の兆しさえ見え始めている我が国の、願わくば願わくばその礎になる石垣の石の一つとなれることを。
とまぁ、偉そうなことを書きましたが、浅学の今の私にできることと言えば、本当にわずかです。
当分の間、このブログは各地の神社や旧跡を巡り、その観光記事を公開する場所となるでしょう。
各地を巡り、タマのネコヱを聴くのです。
そして貴方にも、私が聴いたタマのネコヱの残響をお届けしたいと思います。
最後に、このブログで引用されるヲシテ文献についての記述の殆どは、故松本善之助氏とその意志をついで今も尚研究を続けておられる池田満氏の研究の成果及び発表された書籍によるものが殆どであるということを、ここに明記します。
『定本ホツマツタヱ』『校註ミカサフミ・フトマニ』『ホツマ辞典』等の池田満氏の著書、そして『びーちぇのヲシテのクニ』『真名の日本巡礼』というブログがなければ、おそらく私は今の考えに至りませんでした。勿論それだけではありませんが…深く影響を受けたことは間違いありません。加えて、ここに明記します。
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